お地蔵様、観音様、阿弥陀様、お不動様、このあたりの仏様は日本において最もポピュラーな親しみのある仏様と言えるでしょう。
積善院の本尊は不動明王で聖護院の本尊とその姿が似る特徴を示しています。(像高九十五センチ)
不動明王の起源はインドのヒンドゥー教・シヴァ神とされる事もありますが、梵名をアチャラナータと言います。
アチャラナータとは直訳すれば「動かざる守護者」という意味で、私たちを「揺るぎなき心で守ってくださる方」とも解釈されます。
また、身近にある動かざるものの代名詞「山」の守護者とも解釈され、古くから山で修行する修験者、山伏が修行の主尊としてお迎えしてきました。
宇宙の真理でありすべての仏の中心である大日如来の使い、教令輪身として、不動明王は正しい仏の教えに従う事のできない者を力ずくでも導こうとされます。
「不動明王を少しでも常に念じ、思惟すれば、能く一切の障難を遠ざけ、能く一切の利益を成就し、能く一切の障りとなるものを除く」
と説かれ、御利益が大である事や、十万余と言われた不動明王を祀る修験寺院の影響から不動信仰の爆発的ブームは日本全国で起ったと言えます。
前述の様に起源はインドに求めますが、現地に明確な不動明王の姿は残されていません。
ただしインドのナーランダ大学跡の博物館には、不動明王の 迦楼羅炎の中の火の鳥「迦楼羅・ガルーダ」の像が残ります。
お不動様の表情は、空海や円珍が平安時代初期に唐から伝え帰った「両目を開けて上の歯で下唇を噛む姿」や、
後世では「左目を半目に、上下の牙を噛み合う姿」など、時代によって様々な表情で表現されます。
例えば右手の利剣は物事の善悪を瞬時に見分ける(切り分ける)智慧を表し、左手の羂索は切り取った己の業煩悩を縛り穫る実行力を表します。
憤怒、という怖い顔をしておられますが、間違った事をした我が子を叱り、導く親の愛情を示します。
忿怒と言われる厳しい表情、右手の利剣、左手の羂索、髪の毛を一括りにした形、立像の足の形、筋肉隆々ではないポチャっとしたお腹、口元から覗く牙、おでこのシワ、非常に多くの特徴がありますが、その全てが意味を持ったお姿なのです。
見た目は怖いですが、優しくありがたい導きがまだまだいっぱいあります。
ナマクサマンダバサラナン センダマカロシャナ
ソワタヤウンタラタカンマン
とお唱えします。
凖提観音は『仏道修行を志す者を導き、あらゆる難から人々を救い、人の心の汚れ(煩悩)を清淨にして悟りの世界に導く』とされます。
凖提観音の修法を行う者は、清濁、出家・在家、飲酒肉食、既婚・未婚を問わず、仏道を達成すると言われます。
梵名チュンディー(清浄の意)と言い、日本では 「凖提観世音菩薩」「七倶低仏母如来」等、菩薩と如来、両方の呼ばれ方をする珍しい仏様です。
これは一般的な観音の成立と違い、仏教思想の教学的見地から生まれたためと考えられ、具体的な対象者がないともいわれます。
全ての仏は仏部・蓮華部・金剛部に分かれますが、凖提観音は蓮華部の仏母であり蓮華部諸尊の功徳を司るが故に七倶低仏母如来と言います。
倶低とは広く大きな世界を表し、七倶低仏母とは凖提観音の徳が広大無辺である事や、七千万の(数限りない)仏の母という意味があります。
そして、多くの人々を悟りに導いて仏を誕生させる故に、「母」という文字が使われています。
他の観音の梵名は男性名詞であるのに対して、凖提観音は女性名詞であるのもこういった特徴の現れでしょう。
特に、家内安全、滅罪消滅、病気平癒、恋愛成就、夫婦和合、安産子授け、旅行安全、息災延命、降雨の功徳があるとされます。
水の中から咲く蓮を二人の龍王が支え、その上に凖提観音が居られる事から「海上安全・大漁満足」の祈願が行なわれる事もあります。
この二人の龍王は、凖提観音の左手側に居られるのが難陀龍王(兄)で、右手側に居られるのが跋難陀龍王(弟)です。
どちらも八大龍王の中のお二人で、仏法を守護する方々と言われています。
当院の凖提観音は光格天皇の勅願ということもあり、木造彫刻の凖提観音としては非常に大きな姿をされています。(像高三百二十センチ)
更にその大きさだけでなく、細部の造形も非常に緻密で目を見張ります。
創建に深く関わられた光格天皇が崩御されたのち、欣子内親王は凖提観音を本尊として供養されたことが史料に伝わります。
凖提観音は「五大力菩薩」と共に祀られる事が多く、当院でも毎年二月二十三日に五大力菩薩が開帳されます。
ノウボウサッタ ナムサンミャクサンボダ クチナンタニャタ
オンシャレイシュレイ ジュンテイソワカ
とお唱えします。
才知院本尊の弁財天は、正しくは「出世姫宮権現大弁財天女尊」と言います。
垂髪に冠を乗せ、寄木造りのその御身体には彩色によって御着物が表現されており、その上からさらに本物の御着物をお召しになっておられます。
龍の上に乗り右手に剣、左手に宝珠を持つ姿は後述の縁起の通りの姿を示されます。
お像と共に伝わる縁起では、山本茂兵衛という目の不自由な一人の在家信者に対して一七七九年八月二十八日の夜から数々の不思議が起こり、九月二日にその姿を表されたとされています。
後に弁財天の神徳により目の病が治った茂兵衛ですが、その神徳を聞きつけ集まる人の多さに町役から責められ、空いていた勧化所に移動することとなります。
そして一七八二年頃に造像し、翌年聖護院の末寺となりました。
しかし、不運にも天明大火で堂宇が焼失してしまい次は鴨川堤に再建されます。
これは弁財天が水の神でもあるということから、清浄な水のそばで人々が参詣しやすい場所であったためと伝わります。
平成二十六年に御着物を新調した際、衣体の下から現れた尊像の彩色は御着物に護られ二百数十年を経ているとは思えない位鮮やかに残っておりました。
御着物自体も当時の宮中様式を伝え、技術的にも材質的にも貴重な資料と言えます。
弁財天でありますから水に関するご利益が大きいとされますが、当院の弁財天様は当病平癒だけでなく平癒の後の己の生き方までも含んで導かれる方でもあります。
オンソラソバテイエイソワカ
とお唱えします。
役行者は伝説上の人物ではなく、六三四年に現在の奈良県御所市茅原にある吉祥草寺にお生まれになった実在の人物です。
しかし記録は少なく、続日本紀、日本霊異記などに記されています。
父は賀茂間賀介麿、母は渡都岐白専女と言い、賀茂族の人で、「 役君」という家柄は賀茂宗家に仕える家であったと考えられます。
賀茂氏は葛城山の山の神「高鴨神」を祭る豪族であったと考えられ、その地主神としての「高鴨神」がやがて大和朝廷の守護神となっていくのです。
役行者は幼名を「金杵麿」あるいは「小角」と呼びますが、これは出生の時に前頭部が突出して獨鈷の形をしていたからだとか、役行者を渡都岐白専女が懐胎した時、口に金色の獨鈷杵が入ったからこのように呼ばれのだと言われます。
また、幼少のころから土で仏を作り礼拝したり、獣と言葉が分かるかの様に接していたり、かなり普通の子供とは違った方の様でした。
役小角は17歳で葛城山を修行の道場として開き、二十八里の峰中に法華経二十八品を埋納されます。
更にその上に経塔を作られ、金剛山頂には華厳経中の法喜菩薩を勧請され三宝荒神を感得されました。
19歳の時には、紀伊熊野から大峰へ駈け入り熊野より吉野までの七十五里の間に七十五の靡を配当され、大峰山を修行の道場として開かれます。
そして斉明天皇四年(658)25歳の春、箕面山の瀧窟ににおいて龍樹菩薩を拝し、灌頂最極の秘法を受け即身即佛の妙理を体得されたのです。
又、役行者はこの箕面に伽藍を建立し箕面寺(箕面山瀧安寺)と号し、観音、辨財天、龍樹菩薩を安置し恩徳を報謝されました
その後も役行者はさらに修行を続けられ、天智天皇十年(671)38歳の時、大峰連山の中間にあたる深山を峰中第一の霊地とされます。
そこで自らが龍樹菩薩から授かった灌頂最極の秘法を弟子義学に授け、修験最極の伝法道場とされたのです。
今でもこの秘法は「深仙灌頂」として本山である聖護院に伝わっています。
さらに山上ヶ岳山頂において、霊峰鎮護の威神となるべき仏の感得を祈念され、山上ヶ岳で蔵王権現と十五童子を感得、八童子を大峰に、七童子を葛城に配当され、法華経二十八品を配した葛城山を顕の峰とし、大峰山を密の峰となし、胎金両部の曼茶羅を大峰と葛城に作り上げたのです。
龍樹菩薩により役行者に秘法が伝えられた箕面の瀧窟は近年まで存在していたのですが、川のそばに道路が通り水の流れが変わったことから昭和三十年代の大水で惜しくも倒壊し、今は最深部の壁が残っているのみと言われています。
他にも箕面には役行者が錫杖で穿った穴であったり、師の言い伝えを守り丸い石を奉納する家が伝わるなど、今でも役行者の足跡が多く残ります。
また特筆すべきは、光格天皇から役行者への諡号勅書が本山の聖護院へ贈られている事でしょう。
光格天皇は役行者滅後一千百年の御遠忌に当る寛政十一年(1799) 正月二十五日に烏丸大納言を勅使として聖護院に派遣され、「神變大菩薩」の徽号を追賜されました。
この勅書は全文光格天皇真筆の書であり、役行者さまを信奉する者にとっては第一の宝であると同時に、聖護院が役門正統である事が公式に認められていた事を表す貴重な資料でもあります。
これ以後役行者のことを「神変大菩薩」(じんべんだいぼさつ)とお呼びする事になるのです。
このお地蔵様は、非業の死を遂げられた崇徳上皇の霊を慰めるため建立されたもので、正しくは「崇徳院地蔵」です。
保元元年(1156)、保元の乱が勃発します。
朝廷が崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれたことによるこの乱は、崇徳上皇派の敗北で終結しました。
戦に破れた崇徳上皇は讃岐国に配流されました。
やがて望郷の念にかられた崇徳上皇は、自らの魂が望郷の鬼と化さぬ様にと3年の月日をかけて五部大乗経を写経します。
しかし、弟君の宮藤原忠通を通じ後白河法皇に送り届けた写経は崇徳上皇のもとに送り返されてしまうのでした。
焼かれ、廃棄されればせめてその灰でも都の近くに留まろうものが、罪滅ぼしの写経がわざわざ送り返された事に絶望した崇徳上皇は、「経文は鬼神に捧げ自分も鬼となって恨みを晴らす」と自らの舌先を食い破り、その血で誓いをたて、都を呪ったと言われます。
髪、髭、爪など延びるにまかせたその姿は正に鬼そのものの容姿であったと言われ、長寛二年(1164)についに再び故郷の地を踏むこと無く46歳の若さで崩御されます。
その後、京では後白河天皇派に関係する人が相次いで死去し、更には京の三分の一を灰燼と帰した安元の大火を始めとする災害や政治不安など、社会の動乱が立て続けに起こります。
これを祟りと恐れた町衆が崇徳上皇の霊を慰めるため崇徳院地蔵を建立し、現京大病院敷地内、当時の聖護院の森の中へまつりました。
多くの人々が死んでいったという恐ろしさの為か、いつの頃からか「すとくいん」が「ひとくい」と訛り、「人喰い地蔵」と呼ばれるようになったと考えられます。
そして江戸時代に入ると、菅原道真や平将門と並び日本三大怨霊の一人として数えられるようになりました。
ここからも崇徳院の呪いがどれほど恐れられていたのかが伺えます。
明治十三年頃に当初の場所より当院へ移し替えられたと言われています。