積善院凖提堂は積善院、凖提堂、才知院、定泉院という、いずれも聖護院周辺にあった本山修験の四軒の寺院がまとめられた寺院です。
明治十三年にまずは積善院が凖提堂に移動合併され、大正三年に聖護院の旧鎮守社跡地の現在地に移動します。
その後平成十三年に定泉院末裔・森田孝四郎氏より、同院の本尊・諸仏及び既に合併していた才知院の本尊・諸仏を預かります。
平成二十七年に才知院及び定泉院の諸仏を祀る為の積善院本堂の改築を終え、四寺院の本尊を合祀いたしました。
積善院は聖護院門跡に次ぐ寺格を持つ院家として、不動明王を本尊として平安末から鎌倉にかけて創建されました。
聖護院には若王子・住心院・伽耶院・積善院という四院家があり、それぞれに公家の子弟が院家として入寺し、門跡を補佐する体制をとっていました。
室町時代からは、聖護院の門主がおこなう宮中や室町殿での修法に積善院は常に出仕しています。
最初は仏乗院。栴坊と呼ばれ、陸奥・出羽に霞をもち東北に大きな影響力を有していました。
創建当初、積善院は今の京都大学病院の玄関付近にあったと考えられています。
その後神仏分離令・修験禁止令により明治十三年に熊野神社の南にあった凖提堂へ移動し「積善院凖提堂」となりました。
さらに大正三年に聖護院の鎮守社があった現在地に移ります。
不動明王は積善院の遺構である現行者堂に祀られていましたが、昭和に入りお不動様が重要文化財に指定され、 火災や盗難から守る為に収蔵庫形式の内陣が昭和四十年代に創られました。
現在は凖提堂の御本尊と共に祀られています。
凖提堂は凖提観音をお祀りする寺として創建されました。
生涯に渡り凖提観音の信仰を拡めた「豪潮」というお坊さまに帰依しておられた光格天皇は、豪潮の勧めもあり凖提観世音菩薩を祀る事を発願されます。
熊野神社の南に凖提堂が創建され、一七九九年八月一日に聖護院宮盈仁親王により本尊が開眼供養され光格天皇も参詣されたことや、禁裏や御所女中、尼寺である霊鑑寺などから多くの寄進があった事が記録に残ります。
現賽銭箱も今は無き二條新地の女性たちの寄進であったことが記されています。
現本堂は江戸時代の本堂が伝わっていますがこの本堂は大正十三年までは旧地にあり、明治期の参道の写真も残っています。
修験禁止令によって明治十三年に積善院が合祀され、大正三年に聖護院の旧鎮守社跡の現在地に移動し、その際に本堂が広げられました。
昭和四十年代に収蔵庫形式の内内陣が完成、積善院の御本尊、不動明王と共に祀られました。
さらに平成二十六年に改修工事が行われ、才知院本尊弁財天、定泉院本尊役行者も共に祀られています。
この時明治の神仏判然令によって、削り取られた柱の菊の御門を復元しています。
才知院は弁財天を祀る寺として創建されました。
一七八三年に本尊の京都市内四条新町西上ル炭坐町に創建されましたが、堂宇は天明大火で焼失します。
炎を逃れた本尊は、一七九九年に左京区近衛通鴨川東堤に再建された才知院に祀られます。
また、鴨川での富士垢離を統括していた長泉寺(現弥勒院)の下寺として富士垢離に関わっていたであろう事が残された什物から推察できます。
幕末になり、富士垢離の衰退から才知院は定泉院に合祀されました。
しかしその定泉院も明治の法難で廃寺となり、末裔が土蔵の中に安置、積善院が長年春秋の開扉法要を行なっていました。
平成十三年に定泉院・才知院両寺の遺物とともに積善院に合祀されました。
この弁財天と共に伝わる縁起には、関係者の生年月日や出生地、いつ、どこで、何が起こったのか、あるいは弁財天の御言葉や直接賜った神呪が細かく記され、非常に信憑性の高い資料でもあります。
さらに多くの仏像や版木が現存し、残る資料から同じ弁財天を祀る箕面瀧安寺や、他寺院との関わりも垣間見られます。
定泉院は役行者をお祀りする寺として創建されました。
近世聖護院村修験、明治初年の寺院明細によると定泉院の開基は円暁であるとされます。
円暁は宝永三年(1706)に寂を示した事から、定泉院が創建されたのは千六百年代後半であり、創建当初から聖護院に参勤していたと考えられます。
しかし天明大火で多くの記録が焼失したため創建当初の所在地は判明していません。
現熊野神社の南、積善院に隣接する形で存在していたと伝わりますが、先述の理由により天明の大火以後の再建と推測されます。
天明大火以後は、嘉永三年(1850)に八世森田妙道が定泉院を相続しました。
その後廃寺となった年月日は定かではありませんが、明治三年の聖護院末寺調帳にはその存在が示されています。
廃寺以後は畳店を商いとし、聖護院の畳の御用を扱う事となります。
諸仏は土蔵に祀られていましたが、平成十三年に積善院へ合祀されます。
平成二十六年に積善院本堂が改修された時、役行者像も本堂内の現在の場所に安置されました。